
2011年6月11日 放送分
東日本大震災の時、何を感じ、どう動いたか1
先日、宮城県石巻市を訪ね、現地の先生方に、東日本大震災の極限状態で何を感じどう動いたかを伺いました。東松島市の浜市小学校で2年生の担任教諭だった田母神先生は地震の当時、生徒達のいる教室とは離れた印刷室にいました。地震を感じた時「これは普通の地震とは違う」とすぐに判断し、地震で揺れている中でも生徒達の元へ駆けつけたそうです。教室に戻ると、生徒達は机の下にもぐり、机の脚をしっかりと握っていたというのを聞いて、先生のいない中でも、児童達だけで避難活動が出来るのは、やはり日頃の指導をしっかり行っているからだと感じました。先生自身も地震にとまどいながらも、生徒達に「先生が来たから、もう大丈夫だ」と声をかけ、地震がおさまるのを教室で待っていたそうです。これを聞いて私は瞬時の判断というものが大切だと感じました。
話を聞いていくと、田母神先生だけではなく、先生方の持っている地震への意識の高さが感じられました。それは元々宮城の地震などを体験していたからという理由もあるかもしれませんが、とっさの判断が出来、そのあとに何をすればいいかというのを以前から指導されていたからだと思いました。昨年秋に校舎の耐震補強工事がしっかりとされていたのも、そのひとつです。耐震補強工事についても、先生方が現場の作業を実際に確認するなどしていたので、地震に対して校舎は大丈夫と子ども達へ声をかけて安心させることが出来たのでしょう。以前の中国の四川大地震で校舎が崩れたなどの被害を考えれば、学校の耐震補強工事もさらに重要になっていくと考えられます。また先生方が生徒達をみている中で、校長先生や教頭先生は校舎を走り回り、校内の被害状況を確認していたそうです。その後近隣の方々が避難してきたため、消防団の方々と協力し避難誘導も行ったそうです。こうした状況の中で先生方が指示通りに的確に動くことが出来るのも、個人個人のとっさの判断力によるものだと思いました。
地震から少しすると、「大津波警報」が発令され、消防団の指示に従い、なるべく上の階や屋上に生徒達を避難させたそうです。学校の数百メートル先の松林から、これが海の水なのか?という見たこともない黒い波が押し寄せ、川の水はあふれかえるほど。普段は子ども達が歩く通学路を車だけでなく、家までも流がされる勢いの津波が浜市小学校を襲いました。また小学校は成瀬川の河口近くにあった為、津波で校舎の1階は、すべて水没。2階の踊り場を折り返した辺りまで、水が来ていました。3階建ての校舎の最上階には音楽室が1つあるだけなので、避難してきた300人あまりの人が座るだけで精いっぱいの規模。もちろん横になることも出来ず、酸素が薄く息苦しい、とても辛い一晩を過ごしたと聞きました。
先生方は状況が落ち着くまでは、自宅に戻ることも、自分の家族の心配をすることも出来なかったそうです。小学校から60キロ先に自宅がある為、単身赴任で勤務されていた校長先生は、家族に会えたのは地震から1週間以上経ってからでした。また地震直後に、自宅に帰宅していた何人かの生徒の避難先の確認に、とても時間がかかり大変だったそうです。津波で先生方の足である車が流されてしまい、身動きがとることができなかったからです。地震から数日経って、ようやく車を取りに戻れた先生が、避難所を回って生徒の居場所を確認したり、泥の中から名簿を引き出すなどしたそうです。
現在では津波の被害を受けた校舎を「学校として使用しない」と市が決定し、浜市小学校は、石巻市立東浜小学校の1フロアを借りて子ども達の指導を行っています。学校を再開するにあたっての問題点としては、連絡手段のシステムが整っていないことなどがあげられます。善意で贈られてくる救援物資がたくさん届いているそうですが、小学生に大学ノートは使えなかったり、鉛筆などの数が足りなかったりなど、適切なものを送り込んでもらうシステムがないのです。このような問題が起きるのは、市が把握している事と、実際の現場とのずれが生じているためです。万が一の時に適切に動くことが出来るシステムを確立させることも必要だと強く感じさせられました。